ICTリテラシーとは

みらい教育

今教育業界では

横文字だらけの教育が

幅をきかせている。

たとえば

「ICTを活用した

アクティブラーニングで

グローバル教育」

たぶんこの単語を聞いて

「なんとなく言っていることは分るが

正直よく分らない」

僕も教育業界にいなかったら

3回ぐらい読んで

Googleで調べて

「ふーん」となって終わりそうだ。

グローバル教育も

アクティブラーニングも

ICTも

確かに時流を考えれば

避けては通れないので

親として

最低限のことは知識として

知っておこう

というインセンティブは働くだろう。

もっと言えば

確かに重要だが

それは、

「子供達のためになる

範囲において」

という「制約」がつくだろう。

逆に言えば

「子供達のためにはならない」

というのはどういうことか?

要は

保護者へのアピールのための

「グローバル教育」

「アクティブラーニング」

「ICT」

ということだ。

特にアクティブラーニングは

文科省が最も力を

入れている部分なので

全国の小中学校の中から

いくつかの学校を

研究指定校として、

取り組みを行っているが

どう考えても

先生の力量が追いついておらず、

「なんちゃってアクティブラーニング」

が横行している。

さらに痛いのは

「議論を収集できず、

授業が全く進まない」

と言う副作用に悩まされ

そこに傷口西を塗り込むかごとく

保護者ががんがん

クレームを入れている。

実際娘の学校も

研究指定校だったので

アクティブラーニング

「もどき」のことは

やっていたが

先生の中で

「落としどころ」と

「引き上げるタイミング」が

全く出来ておらず

「今日の授業のゴールは

何だったんだ?」

となることが多かった。

そして学年末で

複数の教科が未終了となり

PTAからの圧力に屈し

その先生は担任から外れ

2度と教団に戻ることはなかった。

生徒も被害者だが

アクティブラーニングについての

徹底的な研修を受けないまま

「指針」だけが先行し

ロールモデルがないまま

試行錯誤を強いられ

結果責められるという

教師もまた同じくらい

被害者だと感じた。

そしてその「穴埋め」を

民間教育が担うのだが、

民間教育機関も

よくよく「見極める目」が

保護者には必要になる。

もし娘が塾に行きたいと言い、

一緒に塾に行って

その教室の責任者の方から

「うちでは

ICTやAIを駆使し

アクティブラーニングを行い

グローバル教育を

行っていますっ!」

そう言ったら

「へ~、すごですね」

といって、帰るだろう。

授業見学もする必要もない。

親が聞いてよく分らない

横文字を駆使し

「うちはすごいシステムで

すごいことをやっているんです」

としか説明できないのだから

おそらく子供に対する授業も

へたくそなんだろうと

容易に想像が付くからだ。

ICTによって子供達が

本来学ぶべきことが

より学びやすくなるなら

大歓迎だ。

しかし、もし僕が

教育業界に全く疎く

そう言う親だと自分を仮定したとき

保護者からみて

「すごそうだな」

と思われるために

導入するICTでは

目的と手段が

入れ替わる可能性が高い。

ここ10年のICTを手段とした

教育サービスの提供方法は

ものすごい進化を遂げた。

またこのコロナ禍で

ICT教育はさらに脚光を浴びた。

一方で

それなりに肥えた目を

持っているつもりだが

正直

「?」となる学習塾も

残念ながら少なくない

という現実も知っている。

学ぶべき事を

「学びやすくするツール」と

「学びをチートにしてしまうツール」

は全く意味が違う。

なぜなら

前者は

「より興味関心を

深耕する機会を提供する」が

後者は

「学びを作業化し、

暗記で処理する最適方法」

だからだ。

親の目から見て

「すごそうだ」という事と、

本質的に「すごい」と

いう事は全く違う。

たとえば中学校には

中学校の役割がある

その中心は

人類のこれまでの経験、発明を

超高速で追体験することだ。

そしてその中には

当たり前だが

「最低限、知識として

詰め込んでおく必要がある」

ものもある。

探求活動にしたって

中学生のうちにやるべきなのは

ゴリゴリの理系大学院生がやるような

「かっこいい研究」ではなく

自らの興味・関心に

素直に従って、

便利な道具がなかった時代の

人類がやっていたのと同様に

泥臭くそれを探求することだ。

その結果、得られた知見が、

実は何百年も前の科学者が

既に発見したことかも知れない。

それでも全然かまわない。

むしろそのことの方が

大きな意味がある。

なぜならこれこそ

究極の「追体験」だからだ。

古代の哲学者が論じたことを

自分で再発見する事こそ

学習の本質であり

そこを「作業」と「暗記」で

乗り切ってしまえば

興味関心という部分が

すっ飛ばされる。

ダーウィンも

エジソンも

アリストテレスもそうだ。

過去の偉人が感じた

発見の喜びや

次第に本質に近づく

ドキドキ感やワクワク感と

中々うまくいかないじれったさを

追体験することが

謙虚さを育み、

学びの意欲を喚起する。

その土台なくして

人類のフロンティアに

立つことは出来ない。

かつてニュートンは

「この発見は

私一人でしたことではない。

私が巨人の肩に

のっていたからこそ

成し遂げたことである」

そう名言を残している。

ここで言う巨人とは

古代から人類の叡智のことだ。

人類のフロンティアにおいて

便利な道具などあり得なかった。

ブルトーザーもクレーンもなく

手作業で、

シャベルや鍬を使って

慎重に地平線を広げていった。

常に泥臭さと

それに負けない

不屈の精神が

求められたはずだ。

中等教育も

実は同じだと思っている。

つまり、

そう言う泥臭さとか、

不屈の精神の

足腰をつくるのが

中等教育の役割であるはずだ。

泥臭い経験を全部すっ飛ばして

便利な道具を使うことや

学習にチートを持ち込む事に

慣れてしまうと

中学生は

便利な道具で出来ることしか、

出来なくなってしまう。

常に効率的に勉強する方法にしか

興味を示さなくなる。

そういうことを忘れ

便利な機器を使いこなす事

それ自体に「かっこよさ」を

求めてしまうと、

子供達が本来経験すべき

貴重な体験や機会を

奪ってしまうことにならないか?

「かっこよさ」に

惑わされない見識と

それを保護者にキチンと

丁寧に説明できる力が

現代の教育者にはそれが

求められていると思っている。

まちがっても

「うちではICTを駆使し

アクティブラーニングで

グローバル教育をしています」

などと言ってはならない。

塾長の必死の説明の裏で

保護者は

我が子を想像しながら

塾長の説明を聞いて

「この塾は、我が子の力を

伸ばしてくれそうか?」

「この塾なら

我が子の潜在能力を

引き出してくれそうか?」

そう言うスタンスで保護者が

塾の説明を聞いている

これが現実だ。

体験するかどうかも含め

最初のコンタクトで

保護者の潜在的ニーズをくみ取り

それをキチンと提示できるか?

だからこそ

教育に携わる者こそ

ICTリテラシーを

高めておかなければ

ならないじゃないかと

つくづく思う。

残念ながら

先ほどの塾長先生の話は

実話だ。

もちろん娘は関係ありませんが。

柊蓮(ひいらぎ れん)

柊蓮(ひいらぎ れん)

少子高齢化、ICT、AIの進展、英語教育改革、入試改革といった業界内における様々な環境の急激な変化をビジネスチャンスと捉え、既存の経営戦略にとらわれない思い切った経営戦略、集客戦略の構築によるクライアントの業績向上に邁進中

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